もののあはれ

あれはたしか今から6年前の2006年、HELPが年に一度のライブを始めてから2回目のライブだったと思います。ライブの前日に僕の親父が亡くなりました。その前約1年間入院の上病気と闘っていたのですが、よりにもよってライブの前日に亡くなりました。親父は、この5年前くらいに脳梗塞で倒れたのですが、そのことを苦に母親は、今でいう認知症(その頃はまだ痴呆と言っていたと思います)を患っておりました。「お父さんが倒れたのは、私のせい」と根拠のない悩みで痴呆になったのだと、僕は思います。

 

どういうメカニズムで痴呆になるのか、科学的な理屈は知りませんが、母親を見ててこう思いました。人は、子供が自立したりして、家族の中で自分の役割がなくなったり、何かを自分のせいだと責めるような状況になると、生きていくことが辛くなって、自ら自分の精神を閉じていくのではないかと。痴呆とは、自分を「いらん子」だと思うことから起こるんじゃないかと。だから、人は社会の中で、自分の役割が必要なんじゃないでしょうか。資本主義の世の中は、モノを生産してお金を稼ぐことから離れた人を、役に立たない人にしてしまいがちです。年老いた親に、もっともっといろんな面で頼っていくことも、時に大切なことなんでしょうね。つまり、先代さんの仕事は、全部取り上げちゃいけません!

 

親父は、死ぬ前にこう言って死にました。「お母さんが、あんな調子じゃけえ、俺が死んでもお母さんに言うな。葬式もお前の家族だけでやって、人に知らせるな。人が知ったら、お母さんに悔みを言うから、お母さんどうなるかわからんから。」と。母は、施設で暮らしており、毎日自分の存在がなくなっていくことと戦っていました。僕は幸い一人っ子で、兄弟に相談する必要もなく、親父のいうとおり、親戚にも知らせずに、葬儀をしました。親父の気持ちのままに、親父を葬ることができたと思っています。

 

さて、そこで問題は、ライブをどうするかということです。お寺さんに相談すると、「お父さんとあなたの意思に従いなさい」と言っていただきました。結局、ライブは決行することに決めました。中止すると、親父が亡くなったことが知れてしまって、親父の言うように、母親を自傷の危険にさらしてしまうかもしれないと思ったからです。さすがに悩みましたが、明日に迫ったライブです。じっくり考えている暇はありません。当日の昼までに、葬儀を済ませて、夕方からのライブはそのまま決行することにしました。しかし、当日の午後のリハーサルにはさすがに間に合いません。同級生メンバーにはやっぱり言わざるを得ません。事情を説明すると、「そりゃさすがにやめたほうがいいんじゃないの」とも言ってくれましたが、僕は、自分と親父の勝手を通しました。

 

今も忘れられません。「よし、わかった。何があっても、俺らが何とかする!」と言ってくれたことが… そして、彼らは、ライブ当日の葬儀に出てくれました。葬儀後、彼らはリハーサルへ、僕は親父を見送りに行きました。この日のライブは、とても苦しかったけれども、なぜか心地がよかったことを覚えています。親父のお袋に対する愛情と同級生の思いやりとをじっくりと味わうことができたからだと思います。「もののあはれ」とはこういうことをいうのでしょうか。