僕S I N G(2)

さて、12年前にボクシングを始めてからの日々は、快調そのものです。最初は、情けないほどダメになっていた自分の体にビックリしました。生来、体を動かすことは好きで、体に似合わず、かなり俊敏なほうだと思いますが、長い間体をほったらかしにしてたせいで、まず、体が自分の言うことを聞きません。いつの間にか、自分の体が、自分の精神の敵になっていたんです。そんなとまどいもあって、正直いうと、週に一回くらい体を動かしたくらいで、そう変わりはないだろう、でも付き合ってくれると言ってるから、すぐにやめちゃ悪いし… という、何とも恩知らずで身勝手な思いで、気持ちが前を向きませんでした。

 

それが、1年も経たないうちに、見る見る体が変わってきて、そしてまた、精神の持ちようが変わって来ました。皆さん、「週一回」を馬鹿にしてはいけません。始めたころ、彼は「0と1は全然違います」と言って励ましてくれました。今では本当にそうだと思います。体を鍛えるということは、精神がしっかりしていなければできないことです。僕は、そんな当たり前のことを忘れていたのです。たとえば、目が覚めても、布団から出ようと精神が指示しない限り、起き上がることはできません。汚い話で恐縮ですが、おしっこが膀胱に貯まっても、トイレに行こうと思わない限り、用をたすことはできません。そういうことも、彼は十分知っていたのでしょう。見事に僕の精神も鍛え直してくれたのです。

 

S氏は、もう15年以上も前になりますが、日本人ボクサーとしては初めてヘビー級世界チャンピオンになったプロボクサーである、西島洋介山(にしじまようすけざん)と公開スパーリングをしたことのある素人格闘家です。空手の経験はあってもボクシングの経験などない素人が、あの洋介山とスパーリングをするなど、とんでもないことです。まかり間違えば、殺されても仕方ないことです。洋介山のあまりの強さに日本国内にはスパーリングの相手がいなかったので、素人の彼が相手をすることになったのですから… 彼は、スパーリングへ出発する直前に「西島とスパーリングすることになったので、ちょっと東京へ行って来ます」と、こともなげに言って出かけました。公開スパーリングの翌日は、このスパーリングが全てのスポーツ紙の一面を飾り、文字通り度肝を抜かれました。そして、帰ってきた彼は、確かに傷だらけでした。彼が洋介山と拳を交えたのは、男を磨きに行ったのだと思いますが、命がけです。ようやるわ…

 

その当時は、僕にはまだわかってなかったと思うのですが、その後去年までの彼との付き合いの中で、男として生きる上で最も大事なことの一つとして「覚悟」が必要だということが、わかったように思います。精神がしっかり決まってるということです。何事があっても、平静にものごとを見つめ、瞬時に決断することができることだと思います。常に何が自分にとって大事なことかがはっきりしていることというと、多少わかりやすいでしょうか。ですから、決断は、机の上で長い間考えて決めるものではないようです。前もって心に決めたことを、その瞬間その瞬間の変化に、落とし込んでいく、という感じでしょうか。

 

彼は、その最期の日々も、毎朝毎朝「今日もさわやかな朝です。日々是好日です。」と言って過ごし、最後の朝もそう言って、手の届かぬところへ旅立っていきました。

 

つづく