命コスト

前稿で、アジアの国へ行ってみて思うことのひとつに、「人の命の値段が安い」ということを挙げましたが、今回はこのことについて、近頃考えていることを書きたいと思います。人の命の値段の問題は、社会のエネルギー、つまり人の元気の良さにも重大な影響を与えている、とても大事な問題だと思っています。ただ、とっても極端なことを言いますから、ちょっと割り引いて聞いてください。

 

日本企業がアジアを考える場合、①仕入拠点 ②生産拠点 ③マーケット の各側面からとらえることができますが、今現在においては、①②はもちろんのこと、③マーケットとして考えることも不可欠です。少なくとも近い将来マーケットとしてとらえることができない場合には、進出を考えるべきではないと思います。そして、ある国をマーケットとして考えた場合に、問題なのはやはりコスト、特に生産コストの中心をなす賃金です。日本国内で生産して輸出する場合にはなおさらです。

 

アジアの国々の働く人々の賃金は、日本に比べるとまだまだ低い水準です。中国の都市部や韓国、台湾においては、かなり日本に近づいているようですが(日本の水準が下がってきているということもありますが…)、それ以外の国々では、都市部においても、まだまだ開きがあります。しかし、アジアの国々を10年間歩いてみて、切実に思うことは、賃金の安さもありますが、「命コスト」が安いことです。賃金が安いというよりも、命の値段が安いのです。これは大きな違いです。

 

今、日本において、ある人が亡くなると、生命保険やら自動車保険やら労災やらで、何千万円ものお金が動きます。若い働き盛りの人が亡くなると、億の単位のお金が動く場合もあります。これに比べて、アジアの国々で人が亡くなって動くお金の単位は十万円の単位です。各国の都市部と日本との賃金の開きは、ぜいぜい1:10ですが、人の命の値段は、1:100以上です。この命の値段を保障するためのコスト、つまり安全に対するコストを「命コスト」というとすると、社会経済全体に占める「命コスト」は、相当大きな差があるといえるでしょう。賃金コストの格差は目に見えますが、「命コスト」の格差は目に見えません。

 

ちょっと考えてみてください。たとえば、ビルを建設するのに、日本では、幅広の足場を構えて、命綱やヘルメットをして、安全靴を履いて、安全大会を開いて、「安全第一」で建設を進めますが、アジアの国々では、5階建のビルくらいなら、竹の足場で(最近では鉄の足場も多くなってますが、それでも単なる鉄の棒です)サンダル履きで作業します。社会保険や労災もありません。同じビルを建設するのに、日本においては、賃金以外にこの命コストが莫大な金額になります。

 

誤解を恐れずに言いますと、アジアの国々においては、人が死んでもいいのです。そんな決死の覚悟で、死にもの狂いで向かってくる相手に勝つには、こちらにもそれ相応の覚悟が必要です。このことが、人々のエネルギーの大きさの違いになっており、そして社会全体の元気の良さの違いになっているような気がしてなりません。思えば、戦後の日本にもそんな元気が満ち満ちていたような気がします。今の日本にそんな覚悟があるかといえば、残念ながらないようです。日本は整いすぎた社会になってしまって、失敗の覚悟がないように見えます。「命コスト」の問題は、そんなことの端的な表れと考えることもできるのではないでしょうか。