社   長

私の父は、2006年の5月に75歳で他界しました。そしてまた、私自身、人生の折り返し点を確実に過ぎたと思うこともあって、近頃とくに自分はどう死んでいくのだろうかと考えます。そんなことを考えるようになってから、むしろ「生き生きと」生きることができているように思います。死を感じ、覚悟ができていれば、精一杯生きることもできるのかなとも思っています。「使命」とは、命を使うことです。何のために生まれてきたかと考えることは、実は、どう死んでいくのかと同じ意味なのかもしれません。明日死ぬことがわかれば、人は、今日をどう生きるかをいやでも考えざるを得ません。今の日本の日常には、「死」がありません。「必死」もありません。今の日本に生気がないのは、そのためかもしれません。

父は、年足らずで少年航空兵に志願した男でした。少年航空兵というのは、特攻隊として養成される少年兵たちです。遅ればせながら、最近になって、これは実は物凄いことなのではないかと思うようになりました。戦争の是非はおくとして、誰かのために自分が犠牲になってもいいと思うこと。「無私」とは、こういうことをいうのだと思いますが、残念ながら今の私にはそういう覚悟はありません。父の場合、結局は、特攻する前に終戦を迎え、その後もさしたることもない人生を終えたのですが、その「生き様」は(酒癖が悪かったりロクでもないところもありましたが・・・)、「高潔」という言葉がピッタリくるように思います。いろんな意味で覚悟ができていたのだと思います。父だけでなく、あの時代の人たちには、高潔に生きた人が多かったように思います。

新渡戸稲造の「武士道」にも言われておりますが、人の上に立つ「リーダー」には「ノブレス・オブリージュ」が肝要とされます。直訳すると「高貴なる義務感」とでもいうのでしょうが、これをこなれた日本語にすると「高潔」という日本語がそれにあたるのではないかと思っております。「覚悟と潔さ」というところでしょうか。危急のときにわが身を捨てること。言うは易く、行なうは難しいことです。一般の人より高く、かつ、自分自身の頭で考えた基準の義務感がないとできません。法律やそれに代表される社会的ルールは、他人が考えたものであり、かつ、最低限の社会的な決め事です。「リーダー」は、このような社会的ルールさえ守っていればいいと考えるのでは足りません。今の日本には、そういう意味での「リーダー」が少ないのだと思います。常に何かに頼り、何事か起これば責任を逃れることに汲々とするような「リーダー」が多いような気がするのです。

さて、日本の中小企業の経営者つまり「社長」は、人の上に立つ存在です。現在の社会において真に「リーダー」と呼べる存在は、中小企業の「社長」しかいないと思っております。それは、中小企業の社長は事業に失敗したときには、丸裸にならなければならないからです。「れんたいほしょう」という物の怪によって、社長は全てを失うことになるからです。上場企業の代表者とはちょっと様子が違っているように思います。中小企業の「社長」は失敗したら全てを失い、全責任を一身で受け止めることになるのです。そうであればこそ、「社長」は、自分の会社に誇りも持ち(「自分の会社は自分の子供より可愛い」という人もいますが、このことが事業承継の最も大きな障害になることもあります)、社員たちよりも数段高い高潔さを持った自立した存在でなければならないのです。そして、私の仕事は、そんな中小企業の経営者の皆さんに寄り添い、自立を支援することだと考えております。中小企業が自立することができたら、日本の国が自立することができるものと思っております。この国において、中小企業の存在はそれだけ重いものであると私は確信しております。

私は、今の日本をそのまま、自分の子供たちに渡すことには躊躇を覚えます。「これが、お父さんたちの築いた日本だ」と胸を張ることはできないような気がしています。日本の少子化は、こんな潜在的な感覚から起こっているのではないかとも思います。自立した国で、大きな富はなくとも、誇りをもって生きることができるのが、幸せなことだと思っております。そんな日本をわが子に残したいと願っています。ただ、そんな大それたことを私のような一市民ができるわけはありません。私には、そんな日本になるよう、只管祈り、願うことしかできません。ただ一隅を照らすつもりで、つまり、自分の身の回りでできることをするだけのことです。皆がそう思えばこの国は変わると信じて・・・ それでは、自分のできることとは何か。中小企業の経営者の自立をサポートすること、そして、父がそうであったように、覚悟ある生き様を子供たちに残してやることだと思っております。