自由と自立

 鶏口となるも寧ろ牛後となるなかれ

 「鶏口」とはにわとりのクチバシ、鶏の体のいちばん前にあってひときわ目立つもの、つまりトップのことです。「牛後」は牛の尻尾でケツのことです。だらんとたれさがってやる気がありません。一般的には、受験とか就職の際に、いい学校のケツより成績の悪い仲間の頭はる方がいい、というような競争のしかたを教える格言ととらえられていると思います。懸命に勉強して他人を蹴落としてやっといい大学に入っても、またケツの方で競争に苦労することになるでしょ。それよりも、楽に勉強してそこそこの大学に入って気楽にやる方が幸せな学生生活が送れるよってね。うーん、考えさせられますね。

 しかし、それはこの言葉の本来の仕事ではないような気がします。そうではなくて、もう少し広く人生の過ごし方への指南だと考えるととても合点がいきます。競争だと考えるならば、鶏口と言っても牛後といってもそう大差のないことでしょう。大小や強弱はずっと連鎖していきますから… そんなことを言うために、この言葉は何千年の時を耐えて来たのではないのだと思います。

 世間とか社会とか大きな会社にあって他人の言うことに従って生きるよりも、たとえ少人数だとしてもリーダーとして自分の人生を生きることを選べと言いたいんだと思います。競争の仕方に重点があるのではなく、自由に生きるということに重点があるのだと思います。言いたいことを言いたい自由人はそうやって生きるしかないですよね。まさに中小企業の社長さんの人生ですね。

 同じような言葉に「自立」がありますが、「自由」と「自立」とは本来同じことを言っているのだと思います。「自らに由る」ことと「自ら立つ」こととは少しニュアンスの違いはありますが、自分の中にあるものを実現するということにおいて共通するのではないかと思います。まず、自分の中に何かがあることが前提です。他人からもらう「自由」はないし、他人に立たせてもらう「自立」もありません。少なくともこの国における「自由」は他人からもらう自由ではなかったはずです。

 自分で決めて、自分で実行して、自分で責任をとる、考えてみれば当たり前のことです。ところが、誰かがルールを作って他の誰かを従わせようとしたところから、自由と自立の果てしない旅が始まったのでしょう。あげく、「ノブレスオブリージュ」というようなことをことさらに言わなければならなくなったのでしょうね。この「ノブレスオブリージュ」ですが、武士道精神と根っこが同じで、この国にも昔からずっとあったのですが、適当な日本語を探すのが難しい、今という時代においては、たぶんその精神と共に死に絶えているのでしょう。ぼくは今のところは、「高潔」とか「覚悟」とかと言うとしっくりくるような気がしています。

 「ノブレスオブリージュ」の正体は、とどのつまりは「責任」です。そして、「自由」と「自立」の正体も実は「責任」です。リーダーとは、自分の責任だけではなく、他人の分の責任も負う人のことを言います。ここから他人の「信用」が生まれるのです。「最も奉仕する者が最も支配する」これは会社を経営する者が、心しておかなくてはならないことのひとつです。社員にもお客さんにも信用がないと事業なぞうまくいくはずがありません。「責任」と「信用」の微妙なしかし一体の関係をじっくり味わう必要があります。

 今の社会は、この責任の形がいろいろで、とても責任のとりかたが難しくなっています。懲役など身体的な拘束、罰金などのお金、文句や批判などの言葉、恥をかかせるなどの感情、いろんな責任があります。国家による法的な責任よりもSNSなどによる社会的な責任の方が強力になってきています。こうなると、国家とか社会とかなんてものが一体何なのかということを考えてみないといけないような気がしますよね。

文章:杉岡 茂

写真:伊丸 綾