江戸時代後期の禅僧です。いちばん最初に仙厓さんの禅画に会ったのは、10年ほども前のことでしょうか。北九州の出光美術館だったと思います。出光佐三さんが仙厓さんの作品が大好きで若い頃からたくさん集められたそうです。そのときぼくが仙厓さんのどの作品に魅せられたのかは忘れましたが、たぶん「指月布袋」だったと思います。あの子の笑顔はずっと長い間ぼくの記憶に残っています。今では「指月布袋」のプリントされた布製の袋バックはぼくのお気に入りの一つです。徳山大学のRYDEENオフィスにも「指月布袋」のコピーを額に入れて飾っています。
仙厓義梵は1750年美濃国で農民の子として生を享け、諸国を行脚の末博多の聖福寺の住職となり88歳でその生を終えるまで、福岡の人々に愛されました。仏教の禅宗の一宗派である臨済宗古月派の禅僧ですが、博多に落ち着いたのちの40歳頃から禅画を始めた画家としても有名です。
さらに、厳格な禅宗の世界にあって、相当奔放な生き方をした人のようで、その奔放な精神が溢れ出した狂歌もたくさん読んでいます。家老の悪政に対して「よかろうと思う家老は悪かろう元の家老がやはりよかろう」などという歌を読んだりしています。江戸時代にあって死罪をも恐れず自由とかおかしみを追い求める姿には胸のすくような「あっぱれ」を感じます。
また、黒田藩の高い身分の役人から「何かおめでたい言葉を」と所望されて、仙厓さんは「よしよし」と筆をとり「祖死父死子死孫死」と書いたそうです。「縁起でもない」と烈火のごとく怒った役人に「怒るのは筋違いじゃ、まず爺さんが死ぬ、次に父が死んで、その次に子が死に、その後に孫が死ぬ、こんなにめでたいことはなかろう」と言ったそうです。とんちの中に禅僧としての確固たる人生観が見え隠れします。あの枠にはまって移動の自由すらない江戸の時代にあって、自由な精神を持って自分自身のリミッターを自らはずす天才であったことはまちがいないでしょう。
思えば、福岡というところは中央に屈しない独特の文化を生み出してきた大いなる自由の国です。海援隊武田鉄矢やチッカーズといった独特の音楽シーンも生み出しました。戦後のGHQやそれに屈した日本政府にも負けじと闘いを挑んだ出光佐三の精神は日本人の誇りを感じさせてくれます。こういう人たちを愛した福岡の人々の精神が先か、仙厓さんの魂が先かはわかりませんが、福岡というのは不思議なところです。今後日本は福岡からアジアへ世界へ飛び出していくようなきがしてなりません。
文章 杉岡 茂