では、古典を読んでみて、古典から何を受け取ったかというと、「もののあはれ」とか「恕」といったものです。「日本の心」ってこんなもんかなと、今の段階では思っています。そして、リーダーに最も大事なものは「高潔=ノブレスオブリージュ」だということも古典に教わりました。これらのことについては、今までに、このブログでも書いたと思います(平成10年12月・平成12年7月)。
オーナー企業の社長さんは、会社経営のいろんなことを自分一人でしなければなりません。僕は、会社を経営するためには、経営技術もさることながら、いわば、経営精神なるものが重要だと、常々考えています。経営技術というのは、いかに儲けるかということに関する知識だとか、稼いだ儲けをいかに減らさないか、つまりリスクをいかに回避し、排除するかということに関する知識のことです。だけど、これらをいかに勉強しても、これらの知識を上手に使う勇気や知恵がないと、せっかくの知識も宝の持ち腐れです。いや、世界一の武器をもっていても、それを使う勇気や知恵を併せ持っていなければ、世界一のガラクタになります。
そして、経営者は孤独です。常に何かの判断をなし、何かの重大な決断を迫られて、勇気や知恵を要する局面もしばしばです。誰の助けもなく、常に迷いながら生きています。自分自身の中に何かの拠り所がほしいですよね。この拠り所が経営精神です。古典はその拠り所、経営精神の宝庫だと思います。日本資本主義の父といわれる渋沢栄一氏も論語を座右に置いていたようですし、偉大な経営者といわれる人たちの多くは、古典にその経営精神を求めています。僕は、中小企業の経営者と大企業の経営者の最も大きな違いは、経営技術にあるのではなく、この経営精神の違いにあるのではないかと思っています。
今は小さな会社でも、確固とした経営精神と意思をもって会社経営にあたれば、必ず大きな会社になると思うし、逆にいかに大きな会社でも、その経営者の精神が堕落すれば、いつの日か倒産の憂き目に会うものと思います。そして、この経営精神は、その人その人で違うのが当然で、唯一絶対のものなどありません。自分だけの経営精神をもつことが大事です。経営者が自分だけの経営精神をもつことが、つまり差別化ということです。トップの頭の中が、独自でなければ、会社が差別化されることなどありえないでしょう。
規制緩和後の大競争時代に至って、差別化ということがよく言われますが、経営技術の差別化の前に、まず経営精神の差別化が必要です。経営精神の差別化なしに経営技術の差別化はできないと考えてもいいでしょう。さらに、この差別化ですが、お客さんの信用を得るための差別化でなければ、何の意味もありません。何百年、いや何千年の時間を経て、地球規模の空間を超えて、人々に語り継がれ、受け入れられてきた精神や意思が古典には存在します。
特に、中小のオーナー企業は、いかに儲けるかということより、いかに続けるかの方が大事だと考えているオーナー社長さんの方がはるかに多いようです。いかに続けるかということになると、いかに信用を得続けるかということになりませんか。お客さんが信用して、わが社を選んでくださる独自の経営精神を身に着けることが必要です。好みの古典を見つけて、その中から独自の経営精神を作り上げてみませんか。