東洋思想の勉強をしていると、何度も同じ壁にぶつかります。これって、東洋思想を勉強する人は皆んなぶつかるんだそうです。この壁が何かと言うと、「天」です。「お天とうさまが見てるよ」というアレです。「天」に対するちょっとしたイメージでもないと、東洋思想の勉強は前に進みません。「天ってなんだろう?」わかっているようで、よく考えてみるとなんだかわからない。中国古典を読んでも空回りばかりして、なかなか前進の実感を得ることができません。前に進むために、今のぼくは「宇宙の混沌」とイメージしています。
さて、そういう苦しみの中で「易経」という古典に行き当たります。「易」というと占いのイメージが強いでしょうが、本来の「易」は占いではなく「記録」です。中国は文字ができてから4000年の時がたっているので、「四千年の歴史」が記録されています。中国四千年の歴史です。日本はひらがなができてからたかだか千年と少ししか経っていないので「千年の歴史」なのです。文字とか言葉と言うのは、人間の歴史や文化にとってはとても大きな意味があります。文字のないところには歴史はないのです。
この易を少しかじって、もう一度「天」にもどって「天とは何か」を考えてみると「天籟(てんらい)」という言葉に行きあたります。天籟とは、宇宙や自然など人間の力を超えた存在に対する驚きです。英語で言うとthe celestial passionと言いますが、つまり天の配剤に驚くことです。天自体の美しさに加えて天の心配りの絶妙さと言うものにも心打たれます。いつもは見ることのない夜空を、あたりが真っ暗な旅先でついまじまじと見たらこんなに美しいのかと驚くこと。動物や人間の体のなにげない動きをじっくり観察するとその複雑極まりない動きの中に統一性や目的が存在することに対する驚き。この世の中には、本当にいろんな不思議があり驚きが存在します。
国木田独歩の小説「牛肉と馬鈴薯」の中で岡本という男が「喫驚(びっくり)したいというのが僕の願なんです」と言い放つが、周囲にはわかってもらえない。岡本はとても純粋にものごとを見る人なんですね。一方、岡本の周囲にいるわれわれ普通の人々は、見ているようで実は何も観てないのです。観音菩薩は音を観ます。聞くのではありません。助けて!の声を聞くより見る方が早いのでしょう。音より光のほうが速いですもんね。光を見たほうが救助に早く行けますね。
そこまでは行かないまでも、じっくりものごとを見て、この世の不思議を驚くだけの余裕をもって生きたいものですね。
文章 杉岡 茂