ウエルビーイング

最近「ウエルビーイング」という言葉をあちこちで聞くようになりました。ぼくはカタカナ語が流行った時には気をつけることにしています。なんか後ろに隠したり隠れていたりして、全部を丸々信用することができないような感覚です。「クレジットカード」や「ローン」というカタカナ語、なんとなくハイカラなハイソな感じがしますが、なんのことはない、日本語で言うと「借金」です。単なる錯覚です。

というわけでそんなカタカナ語つまり外来語については、少なくともいっぺんは自分の頭で考えてみなければ、ぼくの魂は納得しないようです。これまで東洋の古典に親しんできたことの後遺症でしょうか。とりあえず、「ウエルビーイング」を直訳すると、「よく在ること」「よく生きること」です。

これってたぶん「幸せ」ってことですよね。「幸せ」といえば済むことをなんでわざわざ言い換えるのか、しかもカタカナ語で。どこかの誰かさんの何かの意図を感じますが、そこはちょっと置いておくとして。今の時期にこういうことが言われ出したのは、今という時代の背景を考えなきゃいけないのかなあ。なんせ今という時代は、「人類史上初めて人が自由にもの考え自由に行動できる時代」になったのですから… 宗教や政治の制約もなければ、親や先生、上司の言うことをきく必要もない時代です。

そういう意味から「ウエルビーイング」を考えてみると、「自分らしく生きていいよ」ということなんじゃないかと思います。そして、違うみんなが集まって、オーケストラorchestraを組めばいいということじゃないでしょうか。これまでみたいに同じ作業を共同でするコーペレーションCooperationではなくて、それぞれ違った動きから心地よい一つの調べを生み出すことを考えるのが「ウエルビーイング」じゃないかと思ったりしています。

「CooperationからOrchestrationへ!」自分という存在は唯一無二の存在であり、存在すること自体が奇跡であることに人々が驚くことから始まるのかもしれません。親は二人ですが、十代前は1000人以上で、二十代前は100万人以上になることを、そしてその内の一人でも欠けていたら自分は存在しないことを、ちょっとは驚いてもらえましたか。

文章 杉岡 茂