ポピュリズム

 外国からたくさんの言葉を輸入した明治の時代にSocietyを「社会」」と訳したのは福澤諭吉だと言われています。新しい言葉を作ったのでしょうけど、この国に昔からある「世間」という言葉を当てた方が良かったんじゃないかなあ。「社会」というとのっぺらぼうで顔が見えませんが、日本的な「世間」は顔が見えるような気がします。

 古来「世間」は世の中というような意味に使われてきたよう。山上憶良が万葉集の中で歌っている和歌です。

世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども

飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 「憂し」はゆううつを表し「やさし」は身もほそるほどつらいという感情を表す古語です。「世の中はゆううつなことが多くてつらいけれども、私は鳥ではないので飛び立って逃げ出すことはできない」というくらいの意味になります。昔から世間というのは楽しい場所ではなかったようですね。

 コロナ狂騒曲の大音声の中、この「世間」がとても怖い存在になったように思います。地方にあっては、ほんとに世間は怖い‼︎ たぶんデジタル技術とくにスマホの普及もあいまって、「顔の見える範囲」が拡大したかのようで、「世間」の威力と恐怖が格段に増したのでしょう。のっぺらぼうの顔なし「社会」には、身の危険を感じるような威力はなかったように思います。「世間」という強大な力が、スマホに乗って家族や学校や職場などの防衛線をいとも簡単に越えてある個人に襲いかかります。

 こういう時代背景の中で「ポピュリズム」つまり大衆主義というものと「デモクラシー」民主主義の違いってなんだろう、ってなことを考えたりしています。ある私と世間や社会の間に何か一定のシステムとかルールというものが存在するというのが「デモクラシー」で、私と世間の間にそういう仲立ちがないのが「ポピュリズム」というイメージですかね。つまり大衆主義においては、私と世間が直接に向き合い、しかも反対尋問ができないという状況があるように見えます。私を守ってくれる防御線がなくなって、世間と直接対決をするのはとても怖いことですよね。

 故田中角栄氏のロッキード裁判においては反対尋問権を認められないまま有罪が確定しました。これは日本の司法史上最悪の事態でした。言い分を聞かずになんらかの処罰をし処分を下すということが人の世であってはならないことでしょう。西洋の考え方とは違って、この国においては人の行いは白と黒で分けられるものではありません。しかし、当人の言い分を聞かずに白黒をバッサリ切ってしまうのはこの国のやり方ではありません。こういうワイドショー的な風潮もポピュリズムの特徴なのか、とても気になります。

文章 杉岡 茂