古 典(1)

古典というと、皆さん何を思い出しますか。源氏物語の人もいれば、シェークスピアの人も、論語の人もいるかもしれません。僕はこの5年くらいは、古典ばかり読んでます。特に日本と中国の古典です。人生も折り返し地点を過ぎたと思ったころから、若い時とは読書が変わってきました。若いころは、古典も読みましたが、その時のはやりの小説や、経営書や、本屋に行って目についたもの、気になったものを片っ端から買って帰りました。読まずに「積ん読(つんどく)」で終わったものもかなりの数あります。しかし、人生も残り少ないと感じたころから、「死ぬまでに読んどきたい本」だけ読もうという思いに変わりました。「死ぬまでに何回食事ができるかわからないから、おいしいものだけ食べよう」とどなたかのお話をお聞きしたときに、これは冗談じゃないぞと思い、日常生活のいろんなものを大切にするようになったと感じています。読書もその一つです。

 

そんなことを思い始めて、さて、俺のホントに読みたいものは何だろう、と考えたときに、こう思いました。結局本を読むということは、何かを知りたいということだと。誰かが本を書いたり、音楽を奏でたりして何かを表現するということは、何かを伝えたいということであって、本を読んだり音楽を聞くということは、その「伝えたいこと」を受け取ることでしょう。では、俺は何を知りたいのだろう、何を受け取りたいのだろう。その時も今も、「日本の心」です。日本人である自分とは一体どんな人間なんだろう、ということです。「人間とは何だろう、人間はどこから来て、どこへ行くんだろう」というテーマにも興味がありますが、これは大きすぎて死ぬまでにはわからないだろうと、あきらめました。

 

「日本の心」は、日本人が大事にしてきたものは何かということでもあります。そこで、日本の古典と、日本に文字をもたらして日本の文化に多大な影響を与えたであろう、そして今も与え続けているであろう中国の古典を読んでみようと思ったというわけです。古典について、その内容を紹介することは、別の機会に譲るとして、古典の不思議について、今日は書きたいと思います。

 

たとえば、「源氏物語」。平安中期を舞台にした小説で、西暦1000年ころに書かれたとされています。つまり、約1000年の時を超えて、今に読み継がれているものです。1000年の間には、戦乱もあったし、天災もあったし、政治の混乱もありました。そして、昔は印刷ができたわけでもありません。多くの人がたくさん書き写さなければ、残りません。1000年の時を超えて読み継がれて今に至るまでには、日本人の多くが、その古典を残そうとして残さなければ、残らないものです。1000年と一口に言いますが、大変な時間です。源氏物語が今の世に残っていて、現代の我々がこれを読んでいるということは、それ自体奇跡だと、僕は思うのです。古典には、これを残そうとした日本人の意思が、時空を超えた日本人の強い意思が乗り移っているといってもいいかもしれません。もっというと、時代を超えた多くの日本人の意思によって洗練されたものだけが、残る資格があって古典となりえたといえるかもしれません。

 

また、たとえば、仏教の経典は、インドから中国を経て、これまた長い時間をかけて日本に渡来し、ずっと語り継がれ、受け入れられてきています。よその国で生まれた宗教であれ、これまでの日本人が大切にバトンタッチしてきたものだし、日本人は今もこれをこの国に残そうとしています。

 

こういう古典を古臭いとか、今の時代には合わないとかと言って、葬り去ってしまうとしたら、それは、現代人の思い上がりに他ならないと思います。現代の日本人は大きな勘違いをして思い上がっているようです。「昔の人より今の人が優れている」「発展途上国の人より先進国の人の方が優れている」というこの二つの勘違いは今すぐにやめた方がよさそうです。むしろ、日本人がずっと大事にしてきたものを、現代人の思い上がりで、捨て去ってしまおうとしているから、今の日本は荒れてしまってるのではないかと思う今日この頃です。