正義とか常識とか

 正義とか常識とかいうのはなんかよくわからないものですね。そういう言葉がある以上、本物の「正義」とか本物の「常識」というものが存在するにはするのでしょうが、われわれがよくいう「正義」や「常識」はどこにあるのか。百人いれば百とおりの「正義」があり、千人いれば千とおりの「常識」があるようにも見えます。少なくとも「ぼくの正義」と「あなたの正義」は同じじゃないですよね。だとすると、「正義」や「常識」とは違うものを言ってるのかもしれません。

 たとえば、「そんなの常識でしょ!」と叫ぶ人がいたとすれば、そのことが万人にとって「常識」であったならば、そもそも叫ばなければならないような状況にはなってないのだと思います。どこかに「常識」というものが存在してそれを人々が共有しているとすれば、それぞれの人の考え方の対立は起こらないでしょう。人は自分の考え方を常識だと思いたいだけのことです。

 「正義」にしても、1945年8月15日を境にして、それより前は敵を殺すのが正義、それ以降は人殺しは正義に反することです。どうして、一夜にして「正義」がひっくり返るようなことが起こるのでしょうか。誰かが正義かどうかを決めているということでしょうか。そして、その人がなんらかの争いに破れると「正義」のルールが変わるのでしょうか。

 今度は、正義の元である「義」について考えてみましょう。義とは何かというと、何か損得勘定を考えないことというような意味にとっているのが普通のような気がしますが、「正」の字がついて「正義」になったとたんに真っ直ぐな感じを受けなくなります。「正」とか「常」とか言うと何か嘘っぽくなるのはなぜでしょう。

 たしかなことはわかりませんが、きっと「正しい正しくない」とか「常かどうか」ということを判断するにはなんらかのルールが必要であって、そのルールは自分ではない誰かが作ったルールです。そして、その誰かが作ったルールが正しいルールかどうかは誰が判断するのだろう。そのまたルールを判断するルールは誰が判断するのだろう。そのまた・・・

 セイギセイギセイギセイギセイギセイギ・・・・・・

文章 杉岡 茂