HOPE

 「希望」ってのは、これまでのところ、いい人生を生きる上でたよりになるいいものというイメージがあったように思います。でも今のこの時代、ちょっと立ち止まって考えないと危ないなと思ったりしています。もしかしたら残念なことに、残酷な人生を生み出す元になっていないだろうか。世界有数の自殺国、とくに若い世代の自殺が増えているこの国は、この「希望」の処方をまちがっているのかもしれないと…コロナの惨禍は思いあがった人類にこのことを教えたかったのかもしれません。SEKAI NO OWARIの曲に「銀河街の悪夢」というのがありますが、このことを警告しているような気がします。

 「希望」が「明日」を生きることだと考えているとしたら、「今日」が空になってしまう。虚しさや無気力の原因になっているのかも。「希望」は明日を思うより今日を一所懸命に生きることによってしか生まれないものだと、大人は子供たちに教えてきただろうか。「今」の積み重ねが「未来」であるという厳しい現実。自分の思うような未来に希望を持つとしたら、思うような未来は今を精一杯生きることによってしか来ないでしょう。「今ここ」が大事で未来はその結果なのだと強く思うことが大事でしょう。そうはいっても、こういうことを教えることはとてもむずかしいことです。言葉で言ってわかる人は、もうすでにそんなことはわかっている人です。

 「わかる」は「分かる」であって、「分かる」の「る」は古典文法的にいうと自発の「る」であって、「分かる」とは自然と分かれることです。つまり、自分の中にあるものとないものが分かれることであって、自分の中にあるものは「分かる」のです。ことの本質上強制することはできません。「分かれ」という命令形は成立しません。教えることはできないのです。「分かる」ためにできる準備は、自分で本を読んで勉強したり、いろんな人と関わって自ら経験することです。その中で失敗することもあります。でもTry & Errorは自分の人生を生きる上でとても大事なことです。

 そうすると、失敗することは本当に大事なことです。将来の出世のために勉強することよりも、今を楽しく生きるためにゲームをしたりテレビを見ることを選択することもいいでしょう。親や先生に叱られることも大事な失敗かもしれません。でも、人生に無駄なことはただの一つもありません。失敗は自分が決めることです。自分が決める失敗ということを考えると、結局のところ失敗にならないかもしれません。Never Give Upの精神があればいいのです。つまるところ、HOPEというのはNever Give Upのことかもしれません。

文章 杉岡 茂

写真 伊丸 綾