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【通山】第2回 渋沢家の歴史

 前回は渋沢栄一と論語について書きましたが、今回は栄一をはじめとする渋沢家の人々について掘り下げてみたいと思います。

 今回ご紹介するのは、佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書1998年)です。タイトルのとおり、栄一、篤二(とくじ)(栄一の子)、敬三(篤二の子)の三代を軸に渋沢家の歴史を描いています。

 初代の渋沢栄一は、1840年(江戸時代末期)に農家の長男として生まれます。実家は養蚕や製藍などの副業によって経済的に余裕があり、栄一は幼い頃から四書五経(この中に「論語」も含まれています)や剣術などを学ぶことができました。その後、幕末期に攘夷討幕を目指して江戸に出たものの、ひょんなことから幕府側の有力者(後の将軍)徳川慶喜に仕えることになります。さらに明治維新後は大隈重信らに説得されて明治政府(大蔵省)で働きますが、次第に政府の方針と対立するようになり、明治6年(1873年)に退官します(なお、この年は、西郷隆盛をはじめとする多くの有力者が政府を去ることになる「明治六年の政変」等の重大事件が多発しており、学校で習う日本史の中では重要な1年と言えます。)。その後は、第一国立銀行を拠点にして多数の会社の立ち上げや運営に関与し、一代で一族を急激に発展させます。栄一の企業家としての活動の詳細については、島田昌和「渋沢栄一 社会起業家の先駆者」(岩波新書2011年)が参考になります。この本を読むと、栄一が、利益を生む事業(営利事業)だけではなく、福祉、教育、労働問題等の社会・公共事業にも熱心に取り組んでいたことがわかります。

 二代目の渋沢篤二は、周りからの後継者としての期待に耐えかねたのか、趣味や遊びの世界に沈み込んでしまい、最終的には勘当(跡継ぎから外されること)されてしまいます。篤二に関するエピソードはいろいろと紹介されており、八代目桂文楽(落語の名人)を呼んで「寝床」(大家の旦那が趣味の(下手な)義太夫で店子(大家から家を借りている人)たちを苦しめる様子を面白おかしく描いた演目)を演じさせておいてから自分が義太夫を語った、というようなしゃれたエピソードもあります。この義太夫だけではなく、小唄、謡曲、写真、記録映画など、取り組んだ趣味はいずれも高い水準にあったとのことで、やどうやら本来は芸術などの分野で力を発揮する人だったようです。

 なお、栄一には篤二以外にもたくさんの子がいましたが、そのうちの一人である長女歌子の夫穂積(のぶ)(しげ)は有名な法学者で、民法という法律をつくる際に重要な役割を果たしています(弟の穂積八束も法学者で、こちらは高校の日本史で習う「民法典論争」の当事者として有名です。)。この人は、渋沢家の家法・家訓や三井家の家憲もつくっています。

 三代目の渋沢敬三は学問(民俗学)に打ち込む一方で、終戦直前~戦後の混乱期に日本銀行総裁や大蔵大臣を引き受け、自ら財閥解体を積極的に主導し、一族を自発的な「没落」に至らせます。なお、敬三の妻登紀子は、栄一と事業で激しく対立した岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)の孫であり、人の縁の不思議さを感じさせられます。

 渋沢家の歴史をたどって思うのは、一度築き上げたものを長く保っていくことのむつかしさです。この点に関して、この本の中では太宰治の小説「右大臣実朝」が紹介されていますが、鎌倉幕府も初代将軍源頼朝の血筋は三代将軍の実朝(頼朝の子)で途絶えてしまいます(今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はこのあたりの歴史を取り上げていますね。)。また、その少し前の時代を描いたのが古典「平家物語」ですが、これも平家という一族の比較的短期間での栄光と破滅を描いたものです。こうした過去の例をヒントにしながら現在の問題について考えていくのが歴史を学ぶことの重要な意義であるといえますが、この問題(築き上げたものを保っていくためにはどうすればよいか)はそう簡単に答えが出るような性質のものではないので、今後もいろいろな人の人生を追いかけながら考えていきたいと思います。

 次回は、三代目の敬三がライフワークとしていた民俗学にスポットを当ててみたいと思います。主人公は地元山口県が生んだ偉大な学者です。

【この本から入手できる「次の一冊」のヒント】

・江戸時代の勉強法(古典の学び方)
・明治維新以降の徳川慶喜の生活(「徳川慶喜家扶日記」)
・三井家に関わる人々(三野村利左衛門、益田孝、井上馨、陸奥宗光)
・穂積家(陳重・重遠)vs鳩山家(和夫・秀夫)
・家訓
・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)…篤二が在籍した学校に教師として在籍
・夏目漱石…篤二が在籍した学校に後に教師として在籍
・E・H・エリクソン「殺された自己」
・芦田均…克己学寮(渋沢家私塾)の監督官/のちの首相
・柳田国男(民俗学者)→新渡戸稲造(地方(じかた)学)