「国家」も「社会」も、実はよくわかっていない

私たちは「国家」も「社会」も、当たり前にそこにあると思っています。でも改めて考えると、この二つほど実体のはっきりしないものはありません。今日はその話を、経営の目線も混ぜながら書いてみます。

「国のかたち」は、思ったより新しい

日本という「国家」は、明治維新でできたと考えることもできます。江戸の世は、藩がそれぞれ独立した「国家」のようなものでした。そう考えると、今の日本という国のかたちは、まだ200年も経っていません。

なぜこんな話をするかというと、制度というものは、その時代の環境に合わせて作られるからです。環境が変われば、制度も変わらざるを得ません。会社の組織も同じです。創業した時のルールが、そのままずっと通用するとは限りません。

例えば、創業から何十年も続く会社があったとします。今の組織図や役職名が、創業当時とまったく同じということは、まずないはずです。市場が変われば、会社のかたちも変わります。国のかたちも、きっと同じです。

明治以降の政府は、資本主義に沿って、大企業と手を組みながら国を発展させてきました。そのやり方が間違っていたとは思いません。ただ、デジタルの時代になって、同じやり方は通用しなくなっています。この10年で日本が貧しくなったことを見れば、それは明らかでしょう。

今の日本という国のかたちが、このままずっと続くと思いますか。私はそうは思えません。

「社会」って、結局誰のことなんだろう

「国家」と似たようなもので「社会」というものがあります。これも当たり前のようにあると思い込んでいますが、「国家」よりもっと曖昧です。「社会」って、いったい誰のことを指すんでしょう。実体がまったくありません。

なぜ曖昧になるかというと、「社会」というのは個人の集まりを指す言葉なのに、誰もその代表ではないからです。契約もしていないし、ルールも決まっていません。だから「社会のため」という言葉は、便利なわりに中身が空っぽになりがちです。

例えば、「社会に貢献する会社です」と看板に掲げていたとします。その「社会」が具体的に誰を指すのか、答えられる経営者は案外少ないんじゃないでしょうか。

自分の会社が「社会のため」と言うとき、頭の中にどんな顔が浮かんでいますか。それが浮かばないなら、その言葉はまだ自分のものになっていないのかもしれません。

本当に怖いのは「世間」の方

私たち日本人は、「社会」に加えて「世間」というものも相手にしなければなりません。「世間」は、個人の邪魔はするけど、応援はしてくれない。そんな感覚を、みんなどこかで持っているんじゃないでしょうか。

はっきりしていたはずが、だんだん曖昧になっていく 国家 形はある(200年弱) 社会 誰のことか、実体なし 世間 デジタルでさらに増幅

なぜ「世間」がこんなに怖いのか。ルールもないし、代表もいないのに、うわさや評判というかたちで、ものすごい拘束力を持つからです。法律には触れていなくても、「世間」の空気だけで会社が身動き取れなくなることがあります。

例えば、法律的には何の問題もないのに、世間の空気に押されて謝罪会見を開くことになった会社があったとします。そういう話、聞いたことがある人も多いはずです。

デジタルの時代になって、この「世間」はもっとやかましくなります。声が増幅されて、あっという間に広がります。皆さん気をつけましょうね。

自社に置き換えると

ここまでの話を、自分の会社に当てはめて考えてみてください。自社にとっての「国家」にあたるもの――創業以来変えていないルールや理念――は、今の時代にまだ合っていますか。

「社会のため」という言葉を使うとき、具体的に誰の顔を思い浮かべていますか。それを説明できないなら、一度立ち止まって考えてみる価値があります。

自社にとっての「世間」、お客さんの評判や業界内の目、SNSの声とは、どう付き合っていますか。ただ恐れるだけになっていないか、確認してみてください。

正直に言うと、私自身この歳になっても、「国家」や「社会」の答えは出ていません。ただ、答えの出ないことを、答えの出ないままにしておくのも、経営者としては悪くない態度だと思っています。曖昧なものは曖昧なまま置いておいて、目の前のお客さんと社員を大事にする。今のところ、それくらいしかできることはなさそうです。

中小企業の、味方でいたい

周南の9人の若者が、地元の中小企業の現場に入って一緒に考えます。若者・バカ者・よそ者の会社です。

RYDEENについて

・文 杉岡茂(初出:逍雲夜話 2022年9月「国家とか社会とか」を再編集)


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