成功体験という罠 なぜ昨日の勝者ほど変われないのか
30年前、この国は世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称えられていました。その輝きと勢いは今、どこへ行ったのか。ぼくはずっとその答えを「レガシーが居座る世の中」という言葉で考えてきました。
「レガシー」はなぜ悪い言葉になったか

「レガシー」という言葉は、少し前まではいい香りのする言葉でした。先人の遺産、誇るべき歴史、積み重ねてきた実績。それがいつのまにか「古くて邪魔なもの」の代名詞になってしまった。言葉のイメージがここまで反転したのは、中身が変わったからではありません。
時代が変わったのに、レガシーだけがそのままデーンと腰を落ち着けて動かないから、だんだん邪魔になってくる。政治も経済も教育も。本人たちは「実績があるから正しい」と思っている。でも外から見ると、時代に置いてかれているだけです。
「レガシー」を日本語に直すと「成功体験」になります。ニュアンスは少し違いますが、本質は近い。かつて機能したやり方が、環境が変わっても手放せないまま残り続けている。30年の失速の正体は、ぼくにはそこにあると思えてならないのです。
成功体験という「正しさの罠」
成功体験が本当に厄介なのは、それが「間違い」じゃないことです。かつては正しかった。本当に機能した。だから確信がある。確信があるから、疑えない。
例えば、こんな会社を想像してみてください。ある中堅メーカーが20年前、「コスト管理の徹底」で競合を蹴落として成長したとします。その経験が経営者の骨格になっている。だから問題が起きるたびに「まず無駄を絞れ」と動く。その判断は過去には正しかった。でも顧客がコストより品質やスピードを求めるようになっても、同じ処方箋を出し続ける。
これが罠の構造です。「正しかった」という記憶が、「いまも正しい」という錯覚を生む。人間には自分のやり方を支持する情報だけ目に入りやすく、否定する情報は自然と流してしまうクセがあります。成功した経験があるほどこのバイアスは強くなる。気づいたときには、頭では「変えなければ」と分かっていても、体も組織も、古いやり方に完全に最適化されてしまっている。
こういう組織では、変化を求める声が出ても、過去の成功を根拠に封じられます。「あのときも難しいと言われたが、うちのやり方でやり抜いた」という話が出て、場が固まってしまう。正論がレガシーに敗けるのは、論理の問題ではなく、経験の厚みと確信の問題なのです。
勝ち続けた時間が長いほど、変えにくい
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界中からもてはやされた経験があれば、その後の変化への抵抗がそれだけ大きくなるのは、ある意味では当然です。成功の深さと、手放すことへの痛みは比例する。
企業でも同じことが起きます。業界のトップを長く走ってきた会社ほど、過去のやり方を捨てるのが遅い。「自分たちのやり方が正しい」という確信が、組織の隅々まで染み込んでいるから。新入社員が「なぜこのやり方なんですか」と聞いても、「昔からそうだから」という答えしか返ってこない会社は、かなり危うい。
逆に言えば、小さな会社や後発には有利な面があります。レガシーが少ない分、身が軽い。変えることへの摩擦が小さい。今この国が停滞しているのは、大きなプレイヤーが背負っているレガシーの重さに引きずられているからだと、あながち外れてもいないはずです。
自社のレガシーはどのくらい積み上がっているか。棚卸しする価値は必ずあります。消えてほしいレガシーが見つかったとき、それをどう手放すかが経営者の本当の勝負どころだと、ぼくは思っています。
自社に置き換えると
自分の会社を振り返ったとき、「これが当社のやり方だ」と思っている慣行のうち、最後に「なぜそうするのか」を問い直したのはいつでしょうか。問い直した記憶がなければ、それ自体がレガシー化のサインです。
売れていた時代の「勝ちパターン」が、今の顧客や市場にまだ通用しているかどうか。自分たちで確かめる機会を、最近持てていますか。
社内で「昔はこうだったから」という言葉が出やすい場面はどこでしょう。その場面で「昔は昔、今はどうすべきか」と問い返せる人間が、自社にはいるでしょうか。
ぼく自身、還暦を迎えた年の正月に「新たな命を受けた」と自分に言い聞かせました。60年分の成功体験も失敗体験も全部抱えたまま、それでも新しい目で見ようとすること。サクセストラップから抜け出す一歩は、そういう小さな覚悟から始まるんだと今は思っています。
・文 杉岡茂(初出:逍雲夜話 2025年1月「サクセストラップ」を再編集)