驚く力を失ったら、経営者も会社も止まる

中国の古典を長いこと読んできて、最近ずっと気になっていることがあります。東洋思想の一番大事なところって、結局なんなのか。はっきりした答えは、たぶん一生出ません。でも一つだけ、腑に落ちたことがあります。人が生きるために大事なことしか、最後には残らないということです。

学問のための学問に、あまり興味がない

中国思想も、インドから伝わった仏教も、根っこにあるのは同じ問いでした。人はどう生きればいいのか。単なる知識や理屈を積み上げることには、実はあまり意味がないんじゃないか。ぼくはそう思うようになりました。

これは会社にも同じことが言える気がします。フレームワークや経営理論を勉強すること自体は悪くありません。でも、それが目の前で働いている人たちの暮らしとつながっていなければ、ただの飾りです。棚に置いてあるだけの本と同じです。

理屈が理屈のまま終わってしまうのは、たぶん人の心が動いていないからです。人は正しいことより、心が動いたことのほうを長く覚えています。どんなに整った経営理論も、現場の誰かの表情や声とつながっていなければ、翌月には忘れられます。

例えば、立派な理念やビジョンを額に入れて飾っている会社があったとします。でも社員の誰も、その言葉の意味を説明できない。そういう会社、けっこう見かけませんか。理屈は生きた人間の暮らしに刺さって、初めて意味を持ちます。

紀元前、遠く離れた場所で同じことを考えていた

面白いのは、こういう問いを立てたのが中国だけじゃなかったことです。インドでは釈迦が、ギリシャではソクラテスが、ほぼ同じ時代に同じようなことを考えていました。紀元前六〜五世紀。人種も言葉も違う場所で、示し合わせたわけでもないのに、人はどうすれば幸せに生きられるのかを、みんな考えていたわけです。

示し合わせていないのに同じ結論にたどり着く。これって、経営でもたまに起きます。例えば、業界も規模も違う会社の社長さんと話していて、まったく同じ悩みを抱えていることに気づく瞬間があるとします。人が集まって何かをやろうとすると、結局ぶつかる壁は似てくるということなんだと思います。

鍵は「驚くこと」だった

中国の考え方の鍵は「驚くこと」だと、ぼくは思っています。当たり前すぎて誰も気にも留めないことに、驚けるかどうか。これが幸せに生きられるかどうかの分かれ目になっている気がします。国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」にも、その影響が見えます。

美しい花を見て感動するのは簡単です。でも、その花がなぜ咲くのかをじっと考えてみると、これがもう不思議でしかたない。自分の心臓が、誰に頼まれたわけでもないのに勝手に動いていること。それが波の満ち引きのリズムや、月の満ち欠けに同調しているらしいこと。知れば知るほど、驚きます。

驚くのが得意な人ほど、幸せに生きているように見えます。逆に言うと、毎日同じ景色を見て、何にも驚かなくなった時が一番危ない気がします。慣れというのは、便利なようでいて、人から驚く力を少しずつ奪っていくものなんだと思います。同じ作業を繰り返すほど、脳はそれを見なくてよいものとして処理するようになるらしいです。省エネとしては正しいのでしょうが、そのぶん見えなくなるものも増えていきます。

自社に置き換えると

毎朝同じ道を通って会社に行って、同じ顔ぶれと挨拶して、同じ数字を見る。それが悪いわけじゃありません。でも、その中で「あれ、これって当たり前じゃないな」と思える瞬間が、最近ありましたか。

例えば、何年も働いてくれている社員が、実はとんでもなく細かい気配りで現場を支えていたとします。当たり前になりすぎて、社長がそれに気づかなくなっている。そういうこと、心当たりはないでしょうか。

お客さんが今日もお店に来てくれること、取引先が今日も注文をくれること。それは本当は、当たり前でもなんでもないはずです。驚くことをやめた瞬間から、感謝も、改善も、止まっていくんじゃないかとぼくは思っています。毎月変わらず数字が立っている裏に、誰の踏ん張りがあるのか。それを最後に確かめたのはいつだったでしょうか。

答えの出ない話を長々と書いてしまいました。それでも経営は、結局は人が生きることの延長線上にあるものだと思っています。驚く力を失わないこと。それだけは、ずっと覚えておきたいです。

中小企業の、味方でいたい

周南の9人の若者が、地元の中小企業の現場に入って一緒に考えます。若者・バカ者・よそ者の会社です。

RYDEENについて

・文 杉岡茂(初出:逍雲夜話 2023年1月「東洋思想 2」を再編集)


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